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ジミー・ペイジ国技館で演奏しない!!!チケット最高30万円「返金できない」理由!!!「レッド・ツェッペリン」ジェフ・ベック・ジョニー・デップ [entertainment]

日本で行われたロック音楽祭で、英ギタリストのジミー・ペイジ氏(72)が予告と違って演奏しなかったとして、チケット購入者らの不満がツイッターなどに相次いでいる。
主催者側は、ギターなどは用意したと説明している。

ジミー・ペイジ氏は、ロック界では、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン両氏とともに世界3大ギタリストと呼ばれている。
60年代後半から70年代にかけて、英バンド「レッド・ツェッペリン」を率いて一大旋風を巻き起こした。

「ジェフ・ベックとのセッションは見納め」とPR。

ペイジ氏が今回参加したのは、東京・両国国技館で2016年11月11日に行われた「クラシック・ロック・アワード」だ。その年に活躍した人を表彰し、受賞者がライブを行うイベントで、05年から英米で毎年行われている。

日本開催は初めてで、9月23日には、主催者「KLab」のホームページでその概要が告知された。
そこでは、ペイジ氏にとっては20年ぶりの来日公演となり、3大ギタリストの1人、ジェフ・ベック氏と日本で初共演するとうたってあった。

ポスターでも、ペイジ、ベック両氏の名前はトップに大きく掲げられ、KLab社長の11月7日のフェイスブックでも「大御所ジミー・ペイジとジェフ・ベックのセッションは多分これが見納め」と書かれている。
一般席は、1万8000円だったが、席のランクごとに6~30万円まで設定された。


ところが、デイリースポーツの13日付サイト記事によると、当日は4時間ほどのイベントの最終盤になって初めてペイジ氏がステージ上に姿を現し、プレゼンターとしてベック氏を表彰した2分ほどだけの「出演」だった。イベント終了後は、ペイジが演奏しないのはなぜかと客席から疑問の声が上がり、一部のファンはスタッフに詰め寄って返金を求めたという。

事実関係ははっきりしないが、ツイート情報によると、会場の両国国技館では、数十人が深夜0時過ぎまで残ってKLab側に抗議した。
これに対し、社長がその場に出てきて直接謝罪があり、11月14日にホームページ上でも謝罪すると話したという。

それによると、KLabでは、ジミー・ペイジ氏の演奏をイベントの目玉として予定しており、ペイジ氏のためにギターとアンプを当日用意した。
しかし、本番直前になって、ペイジ氏の意向から、演奏が行われなかった。

イベントは、多数の出演者によって構成されるため、それ自体は成立していると判断したとして、「チケット代金の返金は出来かねます」と理解を求めている。

J CASTニュースより
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演奏しないどころか2分くらいで退場って。。。

ジョニー・デップが居たから気分を害したのかな?
ジョニー・デップはギタリストだけど本格的にやってるわけではないし、それと一緒にするなって感じで。。。

もうギーターを弾けないからと思っている人も多いが、決してそんなことはない。
最近のライブ映像を見たがまだまだいけていた。
よっぽど気分が乗らなかったのだろう。
演奏する予定だった・・・が気持ちが変わったとうことか???

詐欺やなんやと騒いでいるが微妙なところである。


ジミー・ペイジが出演と書いてあり、代わりに「ジミー大西」が出てきたら詐欺だが・・・笑


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ありがとうございます!



著者 サラリーマンの大島義史氏 「会社員 自転車で南極点に行く」 本が届いた!!!とまらない好奇心! [entertainment]

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以前大島氏よりお土産でもらったペアグラス。今も大切に使っている。


本日待ちに待った本が届いた。

本を買うなんていつぶりだろうか?

覚えていない。

ワクワクする。

著者:大島義史氏「会社員 自転車で南極点に行く」

大島氏のブログ”とまらない好奇心”
http://yaplog.jp/nonstoprun/


正直、本を読むのは大の苦手である。

活字に弱く、目から入った文字の情報を脳まで伝達し理解するまで人の何倍も時間がかかる。

国語の成績もいつも悪かった。

高校生の時、読書感想文の提出の際、本を読み始めたものの、1ページで挫折し、

「何が書いてあるのか全く理解不能で読むのを途中でやめました」

の1行だけ書いて提出したら、職員室に呼び出しを食らった。

私は事実をそのまま書いたつもりだが、先生は”自分は生徒になめられている”と思ったのだろう。

長々と指導されたが何を言われたのか全く記憶にない。


そんな自分が本を読む。


1ページ、1ページ、ゆっくりとかみ締めながら、味わいながら、、、字も大きいし、読みやすい。

きれいな写真がすばらしいし、ありがたい。

読み切るまで時間は要するかもしれないが、大島氏のこの偉業、集大成を読みきってしまう時が来るのが、

すべてが終わってしまうようで、複雑な心境なのである。



既に、読み切りたくないという気持ちになっている。



これからも更なる偉業にチャレンジして欲しいという願望が先走るのである。







日本人初!!!///会社員が自転車で南極点へ///会社員、ときどき冒険家(上)有給休暇取り南極点へ!!! [entertainment]

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「とまらない好奇心!~自転車ツーリングブログ&雑記~」より
http://yaplog.jp/nonstoprun/


彼はとうとうやってくれた。



「自転車で南極点到達!日本人初」



という快挙を!!!!!




Yahooニュースより

【連載】会社員が自転車で南極点へ10 本音でぶつかり決裂

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160521-00000001-wordleafv-soci

・・・・・・10で終わり???







「THE PAGE 大阪」より

1話~12話(最終回)

https://thepage.jp/osaka/detail/20160529-00000002-wordleafv?page=1

【連載】会社員が自転車で南極点へ12 「南極点」(最終回)

真っ白な雪原を進む。今日は風が強く、前に進むのは、いつも以上にきつく感じた。しかし、これで終わりなのだ。今日をもって、南極自転車旅行は終了する。

 クリスマス・イヴに独り、関西空港に向かったこと。エリックとの喧嘩や、一緒に歩いた雪の平原、家内や娘の顔。そして、この旅行のために費やしてきた5年間の色々な出来事が思い出される。前に進む旅に、徐々にその黒い粒は大きくなっていく。もう、間もなく、南極点に到着する。

 南極点にあるアムンゼン・スコット基地は思いのほか大きく、その基地内を動きまわるのも一苦労だった。南極点周辺に到着して、まず、僕達が行ったのは、基地の隣にあるANIのテント基地に顔を出すことだった。テントの中は非常に快適で、暖かいストーブもたかれていた。ここで美味しいお茶と昼食をごちそうになった。



「Yoshi! 南極点に行こうぜ」



テントは、小さいながらも色々な機能を備えていた。食事の調理をする厨房、食堂、ベッド等の休憩設備があった。更にはパソコンがおいてあって通信施設も兼ねているようだった。ホワイトボードがつりさげられており、今、南極を旅行している全てのパーティの位置が経度・緯度で正確に記してあった。

 「Yoshi! 南極点に行こうぜ」

 テントの中で、すっかり寛いでいた僕をエリックが急かした。そうだ、思わずアムンゼン・スコット基地に着いた時点で安心しきっていたが、南極点にはまだ、到達していないのだった。

 僕達は、防寒着をつけて、改めて自転車に跨った。ANIのキャンプから南極点までは、一直線に雪の道が延びていた。

 ちょうど、800メートル程の距離だった。これが本当の最後のランだ...ゆっくりと僕はペダルを踏み込んだ。


エリックは、ものすごいスピードで南極点に



一方のエリックは、ものすごいスピードで南極点に向かって疾走して消えた。一応ガイドなんだから、もうちょっと歩調をあわせるとか、しないのかなぁと苦笑してしまったが、これも彼らしいといえば、彼らしい。

 南極点には、多くの旗がはためいていた。アメリカ、イギリス、ドイツ、チリ、南アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド。南極に基地をもっていたり、あるいは、南極の付近に領土があったりと、少なからずこの大陸に縁がありそうな国々の旗が並べられている。その中に、ひとつ、アジアの国の旗もあった。日本の旗だ。

 これらの旗に囲まれるように、銀色の球体が載せられた棒が立っていた。南極点だ。僕は幾度となく、ここに到達することを夢見てきた。そして今、それが現実になったのだ。




エリックは南極点で僕を待ってくれていて、「Yoshi、写真を撮るよ」と気の利いた事を言ってくれた。僕は素直に受けることにした。よく日本国旗をもって写真を撮る人がいるが、僕は恥ずかしくてとてもそんなことはできない。仕事もせずに、会社を休んで、こんなところで遊んでいる、恥ずべき人間だということを僕はよくわかっていた。

 僕は南極点に触れた。 自分が小さくなっていくのを感じた。

 その後、僕は早々に南極点を後にした。あまりにも寒かったからだ。 あの球体に手を触れた瞬間、僕は一気に現実に連れ戻された。ああ...ああ...南極点に着いてしまった。

 自分がこの旅行のためにやった借金、そして、休んでいる間に沢山たまっているであろう仕事。次の事を僕は考えていた。「頑張って働いて、借金を返さなければ~っ!」

 どん底からの再スタートである。多くの冒険家にとって南極点はゴールであろう。だが、僕にとっては、ここがスタートなのだ。


世界の果ては、ただ、風が強く、寒く、どこまでも白く


テントに帰ると、スキーで南極点に到達した他のパーティと合流した。夜は、皆でシャンパンを開けてパーティだ。皆、笑顔で、この日ばかりはと、浮かれていた。

 今回のラスト・ディグリーというルートでの自転車による南極点到達は珍しい事のようだった。誰もが祝福をしてくれたが、しかし僕には全然ピンと来なかった。南極を自転車で走ることは決して難しいことではない。まして、この距離であれば尚更だ。

 だが、そのことこそ大切な事のような気がする。特別な装備や、特別なお金、特別な時間を使ってやる「冒険」は、誰もが楽しめることではない。もし、仮に南極という場所が魅力的なのであれば、伝えるべきは、特別な人間にしかできない旅よりも、誰もができる旅なのではないだろか?

 いかに自分の納得できる旅を、自分が納得できる範囲でするか、それが一番僕にとっては大切なのだった。
(そういう意味では、体力も気力も有り余っていたので、もう500キロくらい、南極を自転車で彷徨っていたかったが)

 こうして、僕の南極自転車旅行は終わりを迎えた。世界の果ては、ただ、風が強く、寒く、どこまでも、白い、白い、場所だった。(おわり)

■大島義史(おおしま・よしふみ)1984年広島県生まれ。学生時代から自転車の旅に魅せられ、社会人になった後も有給休暇を取って自転車で世界を駆け巡る。長年にわたり会社や家族と話し合い、2015年12月に有給休暇を取って自転車で南極点へ行く旅に挑み、2016年1月に南極点へ到達を果たす。同月帰国後は間もなく職場へ復帰した。神戸市在住の会社員。インタビューでは「僕は冒険家じゃない、サラリーマンですから」と答えている。









神戸新聞NEXTより

http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201605/0009115942.shtml

会社員、ときどき冒険家(上)有給休暇取り南極点へ


抜けるような青空と誰一人いない雪原。零下30度の世界で聞こえるのは、吹きすさぶ風と自転車のタイヤが雪にめり込む音、そしてあえぐような自分の息遣い。空気が薄いせいか、気を抜くと意識が飛びそうになる。

 1月、会社員大島義史さん(32)=須磨区須磨寺2=は南極大陸にいた。基地から目標までは約160キロ。乱反射できらめく雪原で、自転車をこいでは降りて押すを繰り返した。

 日本時間の10日午後4時ごろ、「South Pole」と記されたプレート前に立った。5年越しの夢がかなった瞬間、それまで感じなかった寒さがこみ上げてきた。

 自転車による南極点到達は日本人初。

 「有休を使って会社員としてなら多分世界初」と大島さんは冗談めかすものの、それはまぎれもない快挙だ。


  ◇

 「自転車なら遠くまで行ける」

 大島さんの冒険の原点は、高校生の時の遺跡巡りだった。大学入学後も、ペダルをこぐ脚は止まらない。夏休みにオーストラリアやアラスカ、中国のタクラマカン砂漠など、4年間で15カ国約5万5千キロを駆け抜けた。

 食料が尽きて道ばたのコケを口にしたり、野イチゴを食べている最中に至近距離でクマと遭遇したり。今なら笑って済ませられるが、強盗にも遭った。しかも計5回。

 それでも帰国して一息つくと、冒険の虫がうずき始める。その繰り返しで大学時代はあっという間に過ぎた。


  ◇

 2008年、大手輸送機器メーカーに就職した。「自転車が最優先」と公言し、入社後初の大型連休は韓国へ。その後もカナダ、インドネシアなどを次々と走破した。

 ものづくりの仕事は好きだ。決して手抜きはしなかったが、根っこには「頑張れば休暇が取りやすくなる」との考えが。すべては自転車のため、だった。

 帰国日、空港から会社に直行。しまっておいたスーツに着替え仕事をこなした。突然の欠便で帰国便への搭乗が難しくなっても、現地で交渉して自家用飛行機をチャーターし事なきを得たことも。

 12年冬、学生時代から世界地図に引き続けた赤い線が縦断した。感慨に浸る大島さんに、妻の由佳さん(26)が思いがけないことを告げた

「南極に行かないと縦断にならないでしょ」

 返答に詰まった大島さんの脳裏に大学時代がよみがえった。当時は、冒険家でなければかの地は踏めないと思っていた。

 まだ見ぬ南極点への“旅”が始まった。

  ◆  ◆

 仕事と冒険は両立するだろうか。休暇を利用して自転車で南極点へ。夢をかなえたサラリーマンの奮戦記。





会社員、ときどき冒険家(下)仕事との両立に達成感

http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201605/0009120481.shtml

「南極に行かないと縦断にはならないのではないですか」

 会社員大島義史さん(32)=須磨区須磨寺=が、妻の由佳さん(26)から指摘されたのは2012年。実は、その前年秋、考課面接で相談していた。



あれ?


見れない・・・


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南極点到達!おめでとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!





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「死んでもいい冒険はしない」自転車で世界初の南極点へ 大島義史さん(28) [entertainment]

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《容赦なく照りつける太陽。日中の気温は50度を軽く超える。見渡す限り広がる荒野に車の影は見えない。「自分の限界を知りたい」と挑戦した自転車でのオーストラリア大陸縦断。大陸内部の広大な乾燥地帯で命綱の水が尽きた。

 次の町まで約250キロ。体が痙攣(けいれん)してペダルを踏むこともできない。たまらず道ばたに倒れ込むとハエが顔中にたかり始めた。「このままここで死ぬのか」。不思議と死の恐怖や喉(のど)の乾きはなく、顔のむずがゆさだけを感じた。やがてテレビの電源を切るようにパチンと意識が途絶えた》

世界各地で自転車旅を続けてきた川崎重工業社員の大島義史(28)=神戸市須磨区。単独の海外遠征で13カ国、計2万4200キロ余りを走破してきた。

 子供の頃から遺跡や古墳を自転車で巡るのが好きだった。東京大に進学後、自転車部に入り、仲間と一緒に夏の北海道を走った。広大な平原、澄み切った空、柔らかな風…。すべてが心に焼き付いた。経験したことない約700キロを走り切り、「自分の限界はどこにあるのか」と思った。無理のない行程を走る部活動に満足できず、部を辞め単独での自転車旅行を始めた。


「死にに行くようなもの」…とてもやめられない


 大学2年のとき、初めて1人で海外遠征へ。約3800キロに及ぶオーストラリア大陸縦断。「死にに行くようなものだ」と家族から猛反対を受けた。勇んで日本を出発したものの、現地に向かう飛行機では足の震えが止まらなかった。

 荒野が広がる乾燥地帯。タンクに穴が開いて水が尽き、意識を失った。通りかかったトレーラーの男性の声で意識を引き戻され、もうろうとしながら水をもらい夢中で飲み干した。古いペットボトルに入った濁った水だったが、「これまで口にしたどんなものよりおいしかった」。

その後も単独の海外遠征を続けたが、やがて卒業という転機を迎えた。悩んだ末、仕事をしながら自転車旅を続ける、と決めた。「旅の一日一日が今でも鮮明に思いだせる。とてもやめられなかった」

 入社1年目から盆や年末年始のほか、年間20日ほどの有給休暇を目いっぱい使った。「何をしに会社に来ているのか」と社内で批判された。「仕事を自転車のサポートとしか見ないダメ社員だった」と振り返る。

 入社1年もたたない頃、上司に「辞めたい」と伝えると、配属先の工場の固定資産管理態勢見直しを命じられた。無駄の洗い出しなど責任の重い仕事をこなすうち、仕事への考え方が変わった。「仕事があるから冒険に、冒険があるから仕事に全力で向き合える」


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守るべき家庭・仕事への責任感 

 それから5年。当初は冒険にやや難色を示していた上司もいまや理解を示し、「次どこ行くの」と声をかけてくれるようになった。

 《夜、自室でパソコンの前に座る。モニターを見つめ、「これしか地図がないんだよな」とつぶやく。南極の衛星写真。毎晩1~2時間行う旅の下調べだ。

 午前5時に起床。仕事の勉強と腕立て伏せなどの筋力トレーニングを黙々とこなす。「ほどほどにね」。気遣う妻の由佳(22)の声を背に、トレーニングを兼ねて自転車で10キロ先の職場へと向かった》

今、大きな目標がある。南極大陸北西部の基地から南極点までの約1千キロを自転車で約40日かけて走る世界初の試み。2014年秋、休職して挑む予定だ。

 由佳とは職場で出会い、2年前に結婚した。夫の冒険に不安を感じながらも、「ずっと夢を追い続けて」と支え続けてくれる由佳と、いつも旅に出る前に一つだけ約束を交わす。「絶対に生きて帰る」と。

 守るべき家庭と仕事への責任感。冒険に臨む心構えは、自分の限界を知ろうと無謀な挑戦を重ねた学生時代から大きく変容した。

 「冒険で死ぬことは名誉だという考えもある。でも、僕には帰るべき家庭と会社がある。死んでもいいという冒険はしない」(川瀬充久)



産経新聞より


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