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「死んでもいい冒険はしない」自転車で世界初の南極点へ 大島義史さん(28) [entertainment]

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《容赦なく照りつける太陽。日中の気温は50度を軽く超える。見渡す限り広がる荒野に車の影は見えない。「自分の限界を知りたい」と挑戦した自転車でのオーストラリア大陸縦断。大陸内部の広大な乾燥地帯で命綱の水が尽きた。

 次の町まで約250キロ。体が痙攣(けいれん)してペダルを踏むこともできない。たまらず道ばたに倒れ込むとハエが顔中にたかり始めた。「このままここで死ぬのか」。不思議と死の恐怖や喉(のど)の乾きはなく、顔のむずがゆさだけを感じた。やがてテレビの電源を切るようにパチンと意識が途絶えた》

世界各地で自転車旅を続けてきた川崎重工業社員の大島義史(28)=神戸市須磨区。単独の海外遠征で13カ国、計2万4200キロ余りを走破してきた。

 子供の頃から遺跡や古墳を自転車で巡るのが好きだった。東京大に進学後、自転車部に入り、仲間と一緒に夏の北海道を走った。広大な平原、澄み切った空、柔らかな風…。すべてが心に焼き付いた。経験したことない約700キロを走り切り、「自分の限界はどこにあるのか」と思った。無理のない行程を走る部活動に満足できず、部を辞め単独での自転車旅行を始めた。


「死にに行くようなもの」…とてもやめられない


 大学2年のとき、初めて1人で海外遠征へ。約3800キロに及ぶオーストラリア大陸縦断。「死にに行くようなものだ」と家族から猛反対を受けた。勇んで日本を出発したものの、現地に向かう飛行機では足の震えが止まらなかった。

 荒野が広がる乾燥地帯。タンクに穴が開いて水が尽き、意識を失った。通りかかったトレーラーの男性の声で意識を引き戻され、もうろうとしながら水をもらい夢中で飲み干した。古いペットボトルに入った濁った水だったが、「これまで口にしたどんなものよりおいしかった」。

その後も単独の海外遠征を続けたが、やがて卒業という転機を迎えた。悩んだ末、仕事をしながら自転車旅を続ける、と決めた。「旅の一日一日が今でも鮮明に思いだせる。とてもやめられなかった」

 入社1年目から盆や年末年始のほか、年間20日ほどの有給休暇を目いっぱい使った。「何をしに会社に来ているのか」と社内で批判された。「仕事を自転車のサポートとしか見ないダメ社員だった」と振り返る。

 入社1年もたたない頃、上司に「辞めたい」と伝えると、配属先の工場の固定資産管理態勢見直しを命じられた。無駄の洗い出しなど責任の重い仕事をこなすうち、仕事への考え方が変わった。「仕事があるから冒険に、冒険があるから仕事に全力で向き合える」


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守るべき家庭・仕事への責任感 

 それから5年。当初は冒険にやや難色を示していた上司もいまや理解を示し、「次どこ行くの」と声をかけてくれるようになった。

 《夜、自室でパソコンの前に座る。モニターを見つめ、「これしか地図がないんだよな」とつぶやく。南極の衛星写真。毎晩1~2時間行う旅の下調べだ。

 午前5時に起床。仕事の勉強と腕立て伏せなどの筋力トレーニングを黙々とこなす。「ほどほどにね」。気遣う妻の由佳(22)の声を背に、トレーニングを兼ねて自転車で10キロ先の職場へと向かった》

今、大きな目標がある。南極大陸北西部の基地から南極点までの約1千キロを自転車で約40日かけて走る世界初の試み。2014年秋、休職して挑む予定だ。

 由佳とは職場で出会い、2年前に結婚した。夫の冒険に不安を感じながらも、「ずっと夢を追い続けて」と支え続けてくれる由佳と、いつも旅に出る前に一つだけ約束を交わす。「絶対に生きて帰る」と。

 守るべき家庭と仕事への責任感。冒険に臨む心構えは、自分の限界を知ろうと無謀な挑戦を重ねた学生時代から大きく変容した。

 「冒険で死ぬことは名誉だという考えもある。でも、僕には帰るべき家庭と会社がある。死んでもいいという冒険はしない」(川瀬充久)



産経新聞より


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